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水面があの世とこの世の境であった

逃げたビルに津波が押し寄せ、水面に飛び込み、奇跡的にビルに漂着したCさん(事業所所長)の避難体験です。

地震直後、店内での避難指示~屋上への避難。そして、高台への避難の決意。

 2:46。地震発生。事務所にお客さんが3、4人程度いた。直ぐに停電したので急いで自動ドアを手動で開放し、お客さんはすぐに帰った(下図)。閉店と書類関係他の金庫格納を指示し、とりあえず従業員へ2階への避難を指示。本部との協議(緊急電話)により、避難所への避難を指示した。渉外の2名がまだ帰って来ないため、Y次長と私の二人が店内に残った。避難所での指揮は、N課長に依頼した。渉外1名が戻り、避難所への避難を指示したが場所がわからないということで、高台にある自宅での待機を指示した。Y次長と自分とで事務所の屋上へ避難した。屋上から向こう岸に打ち付ける波を見て、高台への避難を決意した。

旧大船渡駅周辺

自分の死の可能性を感じた瞬間

 店から出ると足下に水が来ている。最初は排水溝からの逆流かと思っていた。大船渡駅前を右折し、「弥栄ビル」前の道路を逃げた(下図②)。ちょうど弥栄ビルの前を通る時、前方を波が車と一緒に行く手を阻んだ。後ろも波によって封鎖されたが、偶然、横の建物が防波堤状態となって一時的に津波をしのいでくれた。偶然近くにいた二人を誘い、弥栄ビルの3階に逃げた。屋上へのドアは鍵が掛かっていた。津波が3階まで来たので、一緒にいた人が「飛び込むしかない」といい、私だけが上着だけを脱いで飛び込んだ。私が浮き上がってこないため、残りの人は飛び込むのをやめた。私は潜水して、ビルの側面側に向かったため、残った人には見えなかったようだ。私は、崩れた家の木々が固まって、臨時の「いかだ」が出来ていたため、その上に乗り休んだ。その途中でも、プロパンや丸太等に激突した。「なぎ」の状態の瞬間はこのままいれば、空からでも見つけてくれると安易に思っていたが、マネキンと思ってつかんだのがご老人の遺体であった時、初めて自分の死の可能性を感じた。

引き潮の恐怖、水面があの世とこの世の境であった

 引き潮が始まり、すごい勢いで海の方へ引き寄せられた。このまま海に引き込まれてはまずいと思い、プラザホテルの非常階段から屋上に上がれば良いと思い、「いかだ」から飛び込み、プラザホテルに向けて泳いだ(下図③)。非常階段まで届かず、波に飲み込まれながら、マイヤ(大型スーパー)の前についた。マイヤの壁に叩きつけられ、そのまま水の中に引きずりこまれた。自分がどこにいるかわからず、頭の上が塞がっている状態であり、死を覚悟した(下図④)。時間がどれくらい経ったのか不明だが、上につかまれるものがあり、つかまった。本当に真っ暗で、何も見えない中、水面が頭の上からだんだん下がってきている感覚があった。当時は、水面があの世とこの世の境と本気で思っていた。

避難していた人たちからの救出。そして、朝

 水面が一層下がり、隙間から日差しが入り込み、瓦礫が見えた瞬間生きていることを知り、同時につかまっているところが、実は高いところではないかと考え、よじ登った。後で解ったが、マイヤの天井の鉄枠であった。当時は自分がどこにいるかわからなかった。全身びしょ濡れで、気温は0度だったらしく、憔悴した。飛び降りるにも、下は瓦礫等で飛び降りる状態ではなかった。マイヤの屋上から探しにくる人の声が聞こえて、大声で叫び、自分はここにいることを知らせ見つけてもらった。会議室の机を重ねてもらい、その上に飛び降りマイヤの屋上に連れていかれた。濡れた服を脱がされ、傷口に売り物の消毒液や近くのH歯科から酸素吸入器を持ってきてもらい、避難していたH先生、看護師に治療を受けた。マイヤの中で夜を過ごすが、夜中に発熱したが、翌朝には熱も引けた。

以上


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